
ハイタイ🌺ソムタム娘です。
琉球王朝といえば首里城を想い浮かべる人が圧倒的に多いと思うけど、実は首里城が建つ以前より、王朝として統一される基礎を築いたのが浦添グスク(城)とされている。
いつか行ってみたいなぁと思っていたそんな浦添グスク跡へ2月の寒い日に行ってきた。
当時の姿のまま残る拝所も多く、首里城とはまた違った趣もあり想像していた以上によかった。
浦添グスク(城)跡へ

浦添グスク跡がある場所はゆいレール浦添前田駅から徒歩で10分ほどのところ。
那覇に住むわたしは歩いて行けないこともなかったけどこの日は家を出る時間も遅かったので県庁前駅からゆいレールに乗って。
乗車時間は0分ほどで浦添前田駅に到着。

浦添前田駅。
ここから浦添警察署の方へ歩いていくと警察署を少し過ぎた先にガソリンスタンドのENEOSが見えてくる。
そのすぐ右を入って行くと、浦添大公園エントランス事務所が見えてくる。

場所
浦添大公園エントランス事務所

地図を見てどこから城跡に入ったらいいんだ?と思って調べてみたら、ここ南側の入口にある浦添大公園南エントランス管理事務所側から入るのがおすすめっぽい。
因みに事務所施設内は無人の多目的室になっていて、浦添グスクの歴史を知ることができるパネルや散策する際にわかりやすいマップも用意されているので、個人的にはこちらで事前学習?してから周ることをおすすめしたい。

これまタイでもそうだけど、その時代背景を少しでも知っているかどうかで実際に遺跡を目の前にしたとき感動や感じ方もまったく違ってくると思う。


とは言えさすがにここですべてじっくり見るのは時間ももったいないので、写真だけささっと撮って(あとでゆっくり読む用に)。


これはとても分かりやす!!
浦添グスク内には御嶽も何か所かあるらしく、このあたりにも興味があったんだけど、ネットで検索して調べたのよりシンプルでとても分かりやすい説明。







浦添グスクと琉球王朝(三山統一)の歴史


ここで少しだけ歴史の勉強を。
以前は琉球王国という独立国家があった沖縄。
1429年に尚巴志が三山を統一するまでは、三つの国、南部の南山、中部の中山、北部の北山(多分今帰仁城)が存在していたんだそう。
(知らなかった!)
英祖王が琉球の王として即位したのが1260年。当時はおそらくまだ三山には別れないなかったと考えらえる。
その後、英祖王統の権力が衰えていき、琉球各地に按司と呼ばれる有力豪族がグスク(城)を構えて、今帰仁村を中心とする北山、浦添を中心とする中山、大里を中心とする南山の三つの地域に王が現れたとされている。
浦添を中心に発展していき後に琉球王朝として統一され中山。
英祖王が即位した後にまずは浦添ようどれ(墓)が造られている。
その次に中山を支配したのが察度王統。この時代に浦添グスク(城)が大きくなったとされている。
そして1422年に中山の王に即位した尚巴志が1429年に南山を滅ぼし、ここで三山が統一され琉球王国が誕生することになる。
浦添グスクが後の琉球王国の基礎となり、首里城へ遷都されるまで重要な存在だったのがわかる。
その後第一尚王統時代を経て、1589年に王に即位した尚寧王も浦添ようどれに埋葬されているんだとか。

エントランス事務所を後にしたら、すぐ横に設置してある階段を上って、いざ浦添グスク跡へ。
浦添グスク跡を歩く

舗装された道を上っていくと、途中から道が石畳へと変わっている。
首里と浦添グスク跡を結んだ石畳道

15世紀に首里と浦添グスクを結ぶために造られた石畳道。
発掘調査で見つかった当時の石畳の石をそのまま生かしながら復元されたものなんだとか。
この石畳道を造ったのは尚寧王。

カラウカー(水が湧いていた?)

カラウカー
地図を持ってなかったら見過ごしてしまいそう....


カラウカーの「カー」は水の湧く井泉や井戸を表す言葉で、諸説あるらしいけど、琉球時代に女官が髪を洗ったところという言い伝えも。
今でもくぼみになっていて、ここから水が湧いていたのか貯めていたのかも定かじゃないけど、そんな背景を想像するとそれっぽくも見える。

発掘された城壁

戦前である1937年から今まで何度か行われてきた浦添グスクの発掘調査。
その中でも1998年以降の調査ではグスクを取り巻く城壁が見つかっているんだそう。


浦添城の前の碑


先ほど通ってきた、首里と浦添グスクを結ぶ石畳道を記念して建てられた碑。
埋葬人骨

ポイントごとにこういうパネルで説明書きがされてあるとてもありがたい。
これらのパネルにはふるさと納税が活用されているらしい。

こうやって立て札がないと、見過ごしてしまいそうになる場所も多い。
カガンウカー

カガンウカー
顔を水に映して女性が化粧をしていたいわれる井泉がこの先に....

ここからちょうど地元の人と思しき年配の女性とそれに付き添う男性が出てくるのが見えたんだけど、手にはお供え物のようなものを持っていた。
「カー」と呼ばれていた場所も沖縄の人たちにとっては御嶽と同じように神聖な場所だったのかもしれない。

近づいてみると木の根っこの部分に穴が空いているように見える。


浦添グスクから見える首里城

浦添グスクは周辺も見渡せる琉球石灰岩でできた丘の上に建っている。
標高は130mから140mほどで、ここから首里城を望むこともできる。


トゥン(殿)

昔の人たちがウチマー(御祭)を行っていた場所のことを「トゥン」と呼ぶらしい。
豊作祈願や収穫を感謝するために行われるお祭りは伝統行事でもあり、それを行う場所(トゥン)もまた御嶽と同じように神聖な場所とされてたんだそう。

一番高いところまで登って来るとこんな景色が見られる。
晴れていないのが残念だったけど、それでもこの絶景。海の先には読谷村まで見渡せる。

次こそは晴れているときに来たいなぁ。
広場から右手へ向かうとこちらにも見どころポイントがある。


正殿跡

正殿跡
確かに周りに比べるとここだけ石が敷き詰められているような気も。
沖縄戦の被害によって多くの遺構も失われた浦添グスク。
沖縄戦当時はここ浦添グスク一体は前田高地と呼ばれ、日本軍の司令本部があった首里城へ向かう米軍を阻止するための防衛線が張られた場所で、激しい戦いが行われたらしい。
さらにその先の鬱蒼とした場所へ入って行く。
(所々に「ハブに注意」的な立て札も見かけているのでけっこうビクビクしながら)
因みにこれまで沖縄でハブに遭遇したことは一度もない。


ワカリジー??

地図を見た限りは突き当りの多分ここ、、、のはずなんだけど。この岩がワカリジー?
浦添グスクの東端にそびえ立つ石灰岩で、今でも信仰の場所とされている御嶽のひとつ。
ワカリジーの頂上はなんと浦添市内で最も標高が高いらしい。
(あとで地図を見返したらどうやらこちら側からは見えない場所だった)


先ほどの広場へ戻って今度は反対側へ向かってみる。
エントランス事務所でもらってきた地図が本当に役立った。笑

ディーグガマ

ディーグガマ
鍾乳洞が陥没してできた自然窪地で、地元の人たちにとっての神聖な場所。名前の由来は、デイゴの木があった洞窟(ガマ)というところから。
沖縄戦のときには住民の避難場所としても使われていた場所で、すぐ上には「浦和の塔」と呼ばれる沖縄戦で命を落とした人たちを祀る慰霊碑も建っている。
ガマは沖縄の言葉で洞窟やくぼみのこと表すんだけど、その場所の多くが沖縄戦の際に避難場所として使用されたため、「ガマ」と聞くと自分の中ではちょっと恐いような少しネガティブな響きがある。
浦添グスク内に数カ所あったとされる御嶽のひとつで、渡嘉敷嶽であったと推察されている。
沖縄ではこうやって自然にできた洞窟のような場所に拝所として御嶽が多くあるような気がする。



香炉の側に大きなデイゴの樹があったといわれていて、その場所に今は「浦添王子遺跡」と記された碑が建っている。


向かって左側には沖縄戦のことが書かれた慰霊搭とすぐ横には千羽鶴も。今は金網が張られている先が洞窟になっている。





浦添グスクを歩いていると沖縄戦に絡んだ跡も多くあるため、戦争のことを改めて考えさせられる場所でもある。
伊波普猷(いは ふゆう)の墓

伊波普猷(いはふゆう)の墓
誰?って感じだったけど、調べてみるとなんかすごい人だった。
那覇市の生まれで今の東大にあたる東京帝国大学で言語学を専攻し、学友には今の日本の学校文法を確立した橋本進吉も。
さらには民俗学者で遠野物語を書いた柳田國男とも親交があったんだとか。
また、言語学をはじめ民俗学や歴史学を通して沖縄研究(沖縄学)も行っていたことから、「沖縄学の父」とも呼ばれていたんだそう。

そのすぐ南側にはシーヌマウタキと呼ばれていた御嶽もあったらしいのだけど、ここは見落としてしまった。
戦前は岩の突き出た下の方に香炉が置かれ、燈篭が二つあったんだそう。
すでに跡形もなく消失してしまった御嶽もあるけど、それでもこの敷地内にこれだけの数の御嶽や井泉の跡が残っているのはすごいことだと思う。

長くなりそうなので今日はここまで。
次回は浦添グスクに所縁のある歴代の王が埋葬されている浦添ようどれへ。
本日も最後までお読みいただきありがとうございます🌺