はいタイ🌺ソムタム娘です。
今日は最近読んだ本をちょっと紹介。
少し前から興味を持ち始めた言語学についての本。
ムラブリの身体性を獲得した言語学者が書いた本
タイとラオスの国境にある山岳地帯には複数の少数民族が暮らしている。
その中でも現在400人ほどしかいない少数民族、ムラブリの存在を知っている人はどれくらいいるんだろう。
ムラは人、
ブリは森、
を表し森の人と呼ばれているムラブリ。
彼らの持つ言語はいわゆる「文字」を持たない言語でいつかは消えていく運命にある言語のひとつと言われている。
文字を持つ日本語を話す日本人からすると文字を持たない言語なんてあるんだ!?
って驚く人も多いと思うけど。(少なくとも自分は)
実は文字を持たない言語の方がこの世には多い。
世界には6,000から7,000ほどの言語が存在すると言われているけど、なんと文字体系をもっている言語は400ぐらい!?という数字を目にしたこともある。
とりあえず世界には文字を持たない言語の方が多い・・・っていう事実にも改めて驚き。
この本は、そんなこれから消滅の危機にある「危機言語」といわれるムラブリ語に出会い、その民族との交流を通じて彼らの身体性を獲得するまでの、、、言語学者自身の話(彼は研究成果とも書いている)
伊藤雄馬さん、とても面白い!!笑
言語学者って。こんなかんじなんだ、、、
言語学の道を選んだのも消去法という、決して積極的な理由からではないという書き出しからはじまり・・・
筆者である伊藤さんは生物の授業で習った「走性」という概念に置いて、「負の走性」である生物がある刺激に対し離れてい行く「負の走性」に従って行動し、生き延びてきたと書いている。
要するに何か選択を迫られた局面では嫌な方と反対の方へ進む道を選んで来ただけというワケだ。
なんかこう、、、
親近感がわいてくるのはワタシだけ?
そして後に文字を持たない言語であるムラブリ語という少数民族の言語と出会うわけなんだけど、このときの出会いも負の走性に基づいて行動してきた先にある。
とにかく運がいいらしい。笑
ムラブリ語との出会いをこんな風に表現している、
その言葉は、歌うような響きで、文が長くなればなるほど声が高くなっていき、最後には裏声に達して、そこまでくると堰を切ったように長く伸ばされ、余韻を残して終わる。
この美しい言語を話せるようになりたいと感じた。一目惚れならぬ、一耳惚れである。
(本書より引用)
こんな文章を読んだらどんな言語なんだろう?って興味がわいてくる。
タイとラオスの間に位置する山で暮らす人々なのでやっぱりタイ語にも多少似ていたりするのかなぁ?
タイ語も声調があるので確かに抑揚があるというか日本語にはない流れるような響きがある。
自分もいつかあんな風(タイ人みたいに)に話せるようになれたらなぁって思っているけど、、、道のりは厳しい
実はこのムラブリと伊藤雄馬さんについて知ったのは2022年にタイのチェンマイにいたとき。
たまたまネットニュースかなんかで知ったドキュメンタリー映画がきっかけ。
未だにその映画は観ていないのだけどものすごく興味を惹かれたのを覚えている。
きっとこの作者でもある伊藤さんの人柄自体にも(おもしろくて)惹かれた要因なのかも。
そんなユニークな作者については本を読み進めていくうちに解っていただけると思う。笑
言語間の感覚の違い
今こうやって地道にタイ語を勉強したり、第二言語として日本語を学ぼうとしている外国人へ教えるための勉強を多少なりとも学んでいる身としてはとても共感してしまう部分も多いというか、ふむふむと熱心に読んでしまう部分もとても多かった。
ムラブリ語のあいさつ的な言葉が「ごはん食べた?」だというのにも、おぉぉ♪ってなった。
タイ語もある程度仲がよくなってくると、会ったときには「ギンカーオルヤン?」っていうまさにご飯食べた~?っていうあいさつをするのが日常だからだ。
本書の中でも特に面白い表現だなぁっと思ったムラブリ語を「真に受ける」という伊藤さんの姿勢について。
これはタイ語を勉強していて自分も常々思っていることでもあるんだけど、日本語を話しているときのような感覚というか発想でいたら、いつまでたってもでタイ語を理解するのは難しいのではないかということ。
そもそもタイ語を日本語に訳そうとするとおかしなニュアンスになってしまうことがよくある。
物事の発想というか捉え方が日本人とタイ人ではそもそも違うんじゃないかと思う。
タイ人のように物事を考えられるようにならないと・・・(っていうのがそもそも難しい話なんだけど、笑)
まさにこれを筆者は実行している。
感情の捉え方、表現の仕方も違う??
これもまた興味深い話だったのだけど、日本人は大体の人が嬉しいと笑うし気分も高揚すると思う。
しかしここで書かれているムラブリたちは感情を表に出すことをよしとしない、正の感情も負の感情もだ。
つまりは喜んでいるときほどムッとしているように見えたりするらしい。
ある言語が出来上がる過程にはそこで生活する人たちの文化や歴史が反映されていると言われているのだけど、
それ故に感性が異なれば言語表現もそもそも違うものになっていく。
こうやって言われるとそれは確かにそうだよなぁ・・・と理解はできる。
でも実際は今自分が話す日本語というフィルターを通してしか物事を考えられなくなっているんだなって。
そんな日本語というフィルターを取っ払って、ムラブリ語にどんどんのめり込んでいき、ついにはムラブリのようなシンプルな生活を目指していくようになっていく筆者。
その過程を、自分自身に起きる考え方の変化自体がムラブリ語の研究成果だと書いている。
文字を持たない暮らしから得られるもの
「文字」とは言い換えれば「文明」。
文字を獲得し書き記すことで文明が発展してきたというのも事実。
ただし物質的な豊かさと必ずしも精神的豊かさとが比例するとは限らないと思う。
先ほども書いたけど「言語」とはあくまでそれぞれの文化、集団の中で独自に進化していくものだと考えられていて、
生活様式や価値観が異なれば「言語」の進化の過程も異なってくるのは当然のことだともいえる。
「文化相対主義」
文化に優越はなく、自文化を基準に他の文化を判断することなくそれぞれの文化を尊重して受入れようという姿勢のこと。
明日や一週間後、半年後、数年後の予定をまったく考えずに生きるってどんな感覚なんだろう。
文字を持つ環境で生きて来た自分にはまったく想像もつかない。
シンプルに生きるということ。
文字を持たない文明だからこそ獲得することができたスキルと言ってもいいかもしれない。
余計なもの必要のないものをそぎ落としていくと見えてくるもの、って。
シアワセってなんだろう?
豊かさってなんだろう?
生きていく上で本当に必要な力ってなんだろう?
これからの子どもに教えてあげるべきことってなんだろう?
言語学者が書いた本なのに、生きる上でのなにか大切なものというか根本的な部分を考えさせられる、
読んだ人それぞれに何か響くものがきっとある本だと思う。
本日も最後までお読みいただきありがとうございます🌺